青森県、六ヶ所再処理工場で昨年、外部電源が喪失・非常用電源も故障。1980年にフランスで人類絶滅寸前、ラ・アーグ再処理工場(アレヴァ子会社・コジェマ)の全電源喪失事故(半径1万キロに影響)があった。




シェア
このエントリーをはてなブックマークに追加

 


ラ・アーグについて調べていたのですが、六ヶ所再処理工場もとんでもないことになっていました。施設が生き残ってよかったというのが、素直な感想です。

核燃料サイクルをノリや惰性でされては困ります。六ヶ所村は、莫大な量のウラン・プルトニウムを保管しており、全電源喪失すれば、ラ・アーグの想定と同様の事が起こると十分考えられます

東電の清水が役員兼務、今は関電の八木ですが、片手間で大丈夫かと思います。
放出量1%・同心円状の仮定(現実は同心円状ではない)。
青森県の全域が被曝線量3Sv以上のエリアになっています。


この図だけで、十分その危険性が分かると思います。
これだけ危険な施設ですが、電源が極めて脆弱です。




 3月14日、23時40分、使用済燃料受入れ・貯蔵施設に2系統ある冷却水循環ポンプ等のうちA系の負荷に給電中の第1非常用ディーゼル発電機Aについて、燃料供給圧力が低下したことから、当該発電機の保護のため停止しました。
 第1非常用ディーゼル発電機Bについては健全であり、B系の冷却水循環ポンプ等の機能は確保されているため、安全上支障はありません。
 その後、3月15日、0時40分に外部電源からの受電に切り替え、2時33分に冷却水循環ポンプ等のA系を復旧させました。
 その後、念のため、5時10分に第1非常用ディーゼル発電機Bからの給電も外部電源からの受電に切り替えました。
 これにともなう施設内外への放射線等の影響はありません。

 なお、使用済燃料受入れ・貯蔵施設については、3月11日の地震発生に伴い、外部電源が喪失したことから第1非常用ディーゼル発電機A・Bにより給電していました。

東日本大震災により外部電源が喪失しており、ディーゼル発電機で稼動していますが、3月14日に2系統しかない非常用発電機の1系統が故障しています。

2011年の4月7日、東日本大震災の余震と思われる大地震が発生。
このときにも、六ヶ所村再処理工場の、外部電源が震度5前後で喪失しています。



7日午後11時32分頃、宮城県沖を震源とする地震があり、同県北部・中部で震度6強を観測した。



 気象庁によると、地震の規模を示すマグニチュードは7・4、震源の深さは約40キロと推定される。東日本大震災の余震で震度6強を観測したのは初めて。この地震で仙台市宮城野区、同県栗原市で震度6強。また、岩手県大船渡市、釜石市などで震度6弱、青森県八戸市、秋田市などで震度5強、岩手県宮古市、福島市、山形県新庄市などで震度5弱を観測した。

 気象庁は宮城県沿岸に津波警報、青森県太平洋沿岸などに津波注意報を発令したが、8日午前1時前、警報、注意報ともに解除した。


 東北電力によると、地震発生後、青森、秋田、岩手の3県で全域が停電。山形県もほぼ全域、宮城県内でも広範囲で停電となっている。

(中略)
◆東電福島第一「異常なし」◆

 東京電力によると、地震発生時、福島第一原子力発電所では外部電源に異常はなく、1、2、3号機の原子炉への注水と、1号機への窒素注入作業は継続している。5、6号機にも異常はないという。

 福島第二原発でも、異常は見つかっていない。一方、東北電力の女川原発では外部電源3系統のうち2系統が止まった。同電力の東通原発(青森県)と日本原燃の使用済み核燃料再処理工場(同)では外部電源が止まったが、非常用ディーゼル発電機が稼働している。

(2011年4月8日02時17分  読売新聞)


管理人は極めて脆弱に感じるのですが、資料を調べると、使用済み核燃料をガラス固化体に再処理してから、50年冷却の必要があるようです。本当にそんなに事故がなく、もつのでしょうか?

下記資料で放射線量を見れば明らかですが、何かあると一発で終わりになるような放射線量です。人間は近づけません。

福島原発2号機で測定された線量が、毎時72.9Svですので桁違いに高いです。



衝撃だったのは、フランスの再処理工場の致死範囲です。

チェルノブイリで数千キロ離れたところにホットスポットができたことを考えると、飛散量によるとは思いますが、本当に恐ろしいです。
青森県の六ヶ所村は、すぐにでもバックアップを増やすべきです。




日本の原子力発電所で燃やされた使用済み核燃料を集め、その中から核燃料のウランとプルトニウムを取り出す再処理工場である。
最大処理能力はウラン800t/年、使用済燃料貯蔵容量はウラン3000t。2010年の本格稼動を予定して、現在はアクティブ試験という試運転を行っている。

茨城県東海村に日本原子力研究開発機構が所有する再処理工場(東海研究開発センター核燃料サイクル工学研究所  最大処理能力:ウラン210トン/年)を置換する施設とされ…




ラ・アーグ再処理工場Wiki


ラ・アーグ再処理工場(フランス語:Usine de retraitement de la Hague)は、フランス・コタンタン半島のラ・アーグ岬(fr:Cap de la Hague)に所在する、コジェマの核燃料再処理工場である。
ラ・アーグ再処理工場は世界の軽水炉から出される使用済み核燃料のおよそ半数を受け入れている。1976年の運転開始以降1年間で約1,700トンの収容力がある。これらはマルクールの後継事業としてMOX燃料に再処理される。
フランス、日本、ドイツ、ベルギー、イタリアおよびオランダから送られる使用済み核燃料の処理をする。2005年には1,100トンを再処理した。国際法に基づき、再処理不能な放射性廃棄物は使用国に返還される。



コジェマ
コジェマ (Cogema) は、ウラン採掘事業、核燃料製造、核燃料再処理などを行う、フランス持ち株会社アレヴァ傘下の企業。1976年設立で、30以上の国で営業活動を行っており、従業員総数は19,000人程度。
ノルマンディーのコタンタン半島西岸に存在するラ・アーグ再処理工場では、核燃料の再処理および放射性廃棄物の最終処理が行われている。








シェルブールの停電事件
 一九八〇年四月十五日の早朝に、恐怖の事件がフランスで起こった。
 パリから直線にして三百キロ、山あいの遠い道のりを経て、ノルマンディー半島の先端まで出ると英仏海峡がある。ここに、シェルブールの港が寂しくたたずんでいる。映画『シェルブールの雨傘』の舞台として描かれた昔の時代ではなく、朝八時半にもなると、人びとは出勤時間を迎え、店舗や工場へ出た。
 なかでも、シェルブール港近くにあるひとつの工場は、さまざまな近代装置を揃えた巨大プラントだという噂だった。工場はすでに機械の運転準備を進め、あと十分後にはプルトニウムを大量に処理しはじめようという時刻を迎えていた。この工場こそ、ほとんど全世界の原子力発電所で発電用に使われ、死の灰の塊と変った燃料を一手に引き受ける、恐怖のラ・アーグ再処理工場である。恐怖……それは巨大原子炉の大事故、チャイナ・シンドロームさえ、足もとにもおよばないおそろしさ。すでにこの工場が抱えこんでしまった死の灰は、それが外にあふれ出たなら、この惑星の全生命が一瞬にして静止するであろう。そのあとに訪れるのは、永遠の静寂、死の世界である、と言われていた。
 そのような工場がこの地球上に存在し、ほとんどの人間がそれを知らずに生涯を送っている。フランスの文学者も、哲学者も、口角泡を飛ばしながら、その世界を知らずにいた。これはどの奇異、これはどの不思議があろうか。だが、事実だった。パリとロンドンの鼻先、ノルマンディーの港町に、この工場が横たわっている。
<続く>
「東京に原発を!」 P208~より
著者:広瀬隆


その朝の時刻に、いきなり工場の電気がパタリと止まった。一斉に、すべての電気が切れたのである。工場内に、血の凍るような戦慄が走った。
 それはただの停電と呼ぶべきものではなかった。モーターの音が切れ、ポンプが回転を止め、ファンがゆっくり静止すると、電灯のあかりもなくなった建物は浅い静寂のなかに置かれてしまった。
 だがこの静寂は、人のまわりに観察された現象だ。
 高レペルの廃液は、ポンプで送り出される水によって冷却されていた。そのポンプが回転を止めると、廃液が自分で音を立てはじめた。液体のなかから湧き出てくる熱がどこへも伝えられず、次第に内部にこもってくる。
 この電源は、フランス全土に向けた高圧送電線のネットワークから送られていたもので、ちょうどこの工場に向かう一本に故障が起こった。しかしこのような事態は、当然予測されていた。
 主電源が切れると、ただちに電源スイッチが切り替えられ、非常時のために用意されていた自家発電機が、轟然と音を立てて回りはじめた。工場のなかに灯りがともり、すべての機械が回復すると、モーターが再びうなり出し、ポンプが大量の水を送りはじめ、ファンが回り出した。
 高レペルの廃液は、早くもすでに冷却され、表面から立ちのぼる爆発性のガスがファンで外へ送り出された。工場内に走った緊張は、一瞬のうちに解かれたのである。
 そうこうするうち、故障を起こした主電源もようやく修理が終り、もと通り、こちらが再び電気を送りはじめた。もはや、心配することは何もなかった。しかし、あろうことか、この修理が予期せぬ事態を招いたのである。
 主電源が回復したのに、自家発電機のスイッチを切らなかった。
 自家発電機は相変らず轟然たる音をたて、工場に電気を送り続けていた。その同じ回路に、もうひとつ、主電源からの電気が流れ込めば、どのような結果が引き起こされよう。あってはならないことだった。巨大な電圧が両方からドッと作用した。
 その結果、主電源のトランスが破壊され、おそろしい電圧を受け止めきれずに工場じゅうのあちこちで猛烈な火花が散ると、やがてその部分が火を噴きはじめ、遂に末期的な事態が襲いかかってきた。実際、電気の流れが至るところで切断されてしまったのである。
 そのため、自家発電機も完全にストップした。ラ・アーグ再処理工場は、このふたつ以外に電気を送り込む術を持っていなかったが、そのふたつが同時に破壊されてしまった。
 すでにこのとき、全世界破滅の時限爆弾は秒読みに入っていた。だが、このような緊迫した状態ではあり得ない不思議な静けさが、工場を支配したことも確かだった。これは、重大事故だ。そのようなとき、工場内には警報が洪水のように鳴り続け、人びとに「緊急避難」の放送がおこなわれるだろう。しかしラ・アーグでは、警報も停電していた。
 放射能を監視する計器類も止まっていた。記録計のペンも動かなかった。一体全体、工場でどのようなおそろしいことが進行しているか、一切わからないのだ。しかし何かが起こっていることは間違いないという無気味な恐怖に襲われた人びとは、この工場が抱え込んでしまった廃棄物の量を思い起こしていた。もしこのまま手を打つことができないまま事態が進行すれば、広島に投下された原爆を何万ダース(管理人注:ダース=12 従って12万発以上と推定)も集めた量に匹敵する"死の灰”が、すっぽり地球を包むことになるだろう。
 高レペルの廃液は、今度こそグツグツと音を立てはじめた。人びとが最もおそれていた事態に近づいていったのである。液体が沸騰しはじめ、なかに含まれていたセシウムが蒸気となって出はじめていた。これは、致死性の猛毒ガスだった。そのガスが、もうもうとタンクから立ち昇った。
<続く>
「東京に原発を!」 P208~より
著者:広瀬隆


しかしわれわれは、まだ生きている。読者は健在だ。
 この工場火災は、危機一髪のところで大惨事を免れたのである。
 不幸中の幸い、というべきことが三つあった。第一に、この工場から二十キロという近い距離にフランス軍の兵器庫があり、偶然にも、そこに緊急発電装置があった。これを自動車に積み込んで工場まで運び、息せいて配線し終えたとき、まだ悪夢は起こっていなかったのである。それから一時間後には、廃液タンクの冷却が再びはじまり、沸騰していた溶液を辛うじてもとのように静まらせることができたのである。偶然の発電機の存在による幸運があった。
 第二に、この四月十五日は、春の季節を迎えていた。名画『シェルプールの雨傘』のもの悲しいラスト・シーンをご記億の方は、このノルマンディー地方が冬には深い雪に覆われ、かじけるような寒さに見舞われることに思い当たるだろう。実際、二月でもあれば、人びとは冬着に身を包み、自動車で町を往還する。その自動車が山あいの道を楽に走れるようになるのは、ようやく雪が消え、春を迎えた四月のことである。この火災が二月の厳冬期に起こっていたなら、トラックが山間の雪道を走りぬいて兵器庫から発電機を運び込むのに、どれほど手間どったか……あるいは、到着しなかったのではないか、と報じられている。春四月の幸運だった。
 第三に、停電が起こったのは、午前八時三十分ごろだった。プルトニウムを処理する作業がちょうど準備中で、いよいよこれから危険な作業をはじめようという矢先の出来事だったのである。プルトニウムの処理がスタートしていれば、この原爆材料はコンピューターで厳密にコントロールされ、細心の注意を払って“核爆発”を起こさない状態に保たれていなければならない。コンピューター、それは電子計算機とも呼ばれるものだ。
 工場が停電に陥ったとき、この電動式の機械は完全に停止していたあと十分後に予定されていたプルトニウム処理がはじまっていれば、かなり高い確率をもって核爆発が起こっていたと推定されている。兵器庫から緊急発電機が運び込まれ、プルトニウム処理の安全装置に電気が流れはじめたのは、ようやく三時間後のことだ。用意されていた当日のプルトニウムの処理量は三十キログラムに達していたが、それは、長崎に投下された原爆をはるかにしのぐ量である。原爆一個つくるには、四キログラムあれば充分だという。この三十キロが爆発していれば、工場すべてが吹っ飛んでいたであろう。
 運転開始直前の時刻による幸運だった。
<続く>
「東京に原発を!」 P208~より
著者:広瀬隆


再処理工場が大爆発を起こすと、どうなるだろう。
 これは要するに、原子力発電所を百基とか一千基とか束ねて、それが同時にメルトダウン→ガス爆発(または核爆発)の経過をたどるもの、と理解してよい。
 その結果は、すでに西ドイツで解析されている。西ドイツのレポートによると、万一冷却装置が不能になると爆発によって工場の周囲百キロの範囲で、全住民が致死量の十倍から二百倍の放射能を浴びて即死、つまりチェルノブイリからキエフの範囲、あるいは東海村から東京の範囲が即死地帯となる。最終的死亡者の数は、西ドイツ全人口の半分にのぼる可能性がある、というのだ。
 このレポートが西ドイツのケルン原子炉安全研究所から内務省に提出されたのが一九七六年七月、いまから十年以上も前のことであるから、その当時より原子炉の数も規模もずっと大きくなっている今日では、蓄えている死の灰が桁違いに大きく、「致死量の及ぶ範囲は一万キロを超える」というのが定説になっている。
 一万キロ?
 地球の一周が四万キロだから、前後左右に一万手口の範囲をカバーすると、地球の半分を覆いつくす範囲の人間が死んでしまう。国民の半分どころではない。地球の半分だ。しかしラ・アーグの再処理工場から一万キロの円を描くと、左の桧(管理人注:冒頭の図)のように、人類のほとんどがこの世から姿を消す。


 一万キロ?一万をさかさに読むと万一……
 その万一のことが、この一九八〇年代にフランスで起こりかけたのである。
 これほど大変な事故が起きかけたというのに、それを知っている人は、全世界でも数少ない。これは、火災発生と同時に、フランスの大統領ジスカールデスタンが完全な報道管制を命じたからである。わが国で「あわや大事故」と報じた毎日新聞の日付が、火災から二ヵ月も後の六月十一日である。さまざまな民間情報から、ようやく事件の全貌がわかってきたのである。
 しかしわが国の原子力産業は、このような人類史上の大事件をほとんど報じていない。飛行機のニアミスがあれば、プロレス新聞まがいの見出しが社会面を飾るが、原子力の危険性は故意に隠されているのではないか。東海村の再処理工場がラ・アーグエ場をモデルに設計されているので、そのような事件が世間に伝われば、大問題となる。加えて、東海村を桁違いに大きくした第二再処理工場がすでに計画されているこの時点で、ラ・アーグの事件はあまりに「まずい」のだ。(管理人注 おそらく六ヶ所村再処理工場)
 当事者でさえこの事件を知らされていない。たとえば実際に再処理工場を動かしている“原発シンジケート”の下部集団である。原子力発電所そのものの内部で、いわゆる運転員や作業者が、黙々と原子力に肉体を捧げている現場に目を向けてみよう。
 彼らは電力会社の従業員として、入社した時から社内教育を受ける。一人ずつに教科書が手渡され、原子力安全論を吹きこまれる。一例を引くと、東京電力では『原子力の周辺』と題した教科書が採用され、そのなかで再処理工場の大惨事が論じられているが、
 ───すると、万一水の循環が止まったら?
「そうですね、熱目のフロのお湯ぐらいには温度が上がりますが、沸騰するなどということはありませんよ」


 と書かれている。事実フランスのラ・アーグ再処理工場では、放射性廃液が沸騰し、全世界が死滅寸前の重大事に直面していたが、電力会社はその危険性を社員に教育していないのである。したがって運転員も作業者も、あるいは重大な点検と整備をおこなう下請け作業者も、彼らの妻子を含めた地元民も、原子力の危険性を「熱目のフロのお湯」のレペルでしか認識できないのである。その教科書の内容こそ、日常接する大新聞に流れこんで多くの人を洗脳してきた安全論の危険な正体でもある。
「東京に原発を!」 P208~より



シェア
このエントリーをはてなブックマークに追加

 


関連記事・:


0 件のコメント:

最近の記事も是非どうぞ