平成の鬼平、三重野康、元日銀総裁が死去。バブル発生・崩壊、日本経済長期低迷の戦犯の1人。死因は心不全。




シェア
このエントリーをはてなブックマークに追加

 


マスコミに煽られる国民。
今も昔も変わらないですね。
三重野元日銀総裁が死去


元日銀総裁の三重野康氏が15日、心不全のため死去した。88歳。大分県出身。 2012/04/18 15:05 【共同通信】


三重野 康(みえの やすし、1924年3月17日 - )は、第26代日本銀行総裁。



1986年夏頃から「乾いた薪」論を展開して金利引き上げを模索していたが、資産価格バブルを金融政策で防止するためには、「統計上の物価の安定」が実現している段階で大幅な金利引上げが必要となることもあって、国民に対しては十分に説得的とはいえず、結果としてバブルの生成を許すことになる。
1989年12月、同行の第26代総裁に就任すると矢継ぎ早の金融引締め政策を実施。「平成の鬼平」ともいわれたが、澄田前総裁の下で投機によって膨張を続けたバブル経済を崩壊させ(失われた10年を起こした)とされる。その処理・経済再建の課題を、後任の松下康雄に委ねた形となった。三重野は総裁退任後も、「インフレなき経済成長」を唱導し、長期(特に日銀出身の速水優が総裁在任中)にわたり、隠然たる影響力を保っていたと言われている。



平成の鬼平 [編集]

当時、バブルによる地価上昇が一般庶民の生活を苦しめていたこともあって(当時のサラリーマンにとって、都内に家を建てることは極めて難しかった)、それを果敢に退治する三重野をマスコミは「平成の鬼平」と賞賛した(佐高信など)。だが、この時の行き過ぎたバブル潰しが、その後の資産デフレ(失われた10年)を招来せしめたとして、現在は三重野の政策を否定的に解する向きが多い(例えば、慶大教授・竹森俊平:『世界デフレは三度来る』など)。特に、2000年にFRBのアラン・グリーンスパン議長がアメリカのバブル経済を無事に軟着陸させた為、同様の指摘が強まることとなった。この件については、当時、三重野の姿勢を持ち上げるだけ持ち上げたマスコミの見識を問う声も存在する。さらに、サブプライム・ローン問題に端を発する金融危機後のアメリカ、イギリスなどで、中央銀行による果敢な金融緩和がとられた結果、日本のように10年以上に渡る景気停滞を迎えることなく回復に向かっていることから、三重野ないし日本銀行への批判はさらに高まっている。




シェア
このエントリーをはてなブックマークに追加

 


関連記事・:


0 件のコメント:

最近の記事も是非どうぞ