源田実 核燃料サイクルをミッドウェー海戦敗戦の戦犯の一人が推進していた



源田実は航空参謀して、ミッドウェー海戦敗戦の戦犯の一人として有名です。
その人物が、核燃料サイクル推進に関っていました。管理人、知らなかったので紹介します。

ある意味、責任を追及されない日本の象徴の一人でもありますね。

源田実の関わりを示唆 


▲ETV特集 核燃料サイクル迷走の軌跡 前編



34:00~

○当時 外務省国際局科学部長 矢田部厚彦

○「不拡散条約後」の日本の安全保障と科学技術

○内容 要約 核燃料サイクルを用いて、中国の核武装に対抗していく



(中略)
矢田部さんが報告書を作成したのは、中国の核武装に危機感を抱いた政治家からの働きかけがあったからだと言います。


その中心人物が自由民主党議員、源田実。
元海軍大佐。太平洋戦争開戦の真珠湾攻撃にも航空参謀として参加した人物でした。


矢田部さん
「源田先生は、やっぱり信念はお持ちだったんでしょうね。個人的に議員会館に呼び出されて、何をやっとるんだということで油を絞られたと言うことですよ」


「この先生方はですね、日本が核兵器を持とうということをおっしゃった訳ではない。けれども先生方はですね将来、そういうことがあるかもしれない。だから言ってみれば、核のオプション(番組注 選択権)を失ってはいけない。核のオプションを維持しておこうと。そういう議論です」


この源田実という人物は、太平洋戦争関連では非常に名前の通っている人物です。
管理人は、ミッドウェー海戦大敗の、戦犯の一人と見ています。


簡単に紹介。
日本の航空機の作戦に日中戦争から参謀として関わり続けている人物です。

真珠湾奇襲攻撃に参加


源田 実Wiki


源田 実(げんだ みのる、源田 實、1904年(明治37年)8月16日 - 1989年(平成元年)8月15日)は広島県山県郡加計町出身、広島一中卒、海兵52期、海大卒の大日本帝国海軍軍人、航空自衛官、政治家である。海軍における最終階級は大佐。海軍では戦闘機パイロット、航空参謀、航空隊司令。自衛隊では初代航空総隊司令、第3代航空幕僚長。参議院議員を務める。三四三航空隊司令。赤十字飛行隊初代隊長。ブルーインパルスの創始者。海軍航空の第一人者として様々な作戦に参加した。




4月10日、南雲忠一司令長官、草鹿龍之介参謀長とする第一航空艦隊が編成され源田は航空参謀に任命される[60]。源田と先任参謀大石保に奇襲作戦実行計画の完成が命じられる[61]。源田の要望によって空中指揮官として淵田美津雄中佐[注釈 7]、雷撃の専門家として村田重治が配員される[64]。
草鹿は源田が案画し淵田が実行する好取組みと評価し彼らの献策を入れて見守っており[65]、南雲忠一も航空に関して素人で航空参謀の源田の意見はすんなり通った。そのため源田艦隊と呼ぶ声もあった[66]。淵田美津雄や坂上五郎によれば当時源田は自身の案や計画が何の批判もなく通っていくことに不安や不満を感じていたという[67]。

ミッドウェー海戦敗戦の航空参謀


1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦では、偵察機が予期せぬ米軍機動部隊発見を報告し山口多聞少将(第二航空戦隊司令官)の即時攻撃の意見具申がされた。しかし南雲機動部隊上空に日本軍第一次攻撃隊100機がミッドウェー島攻撃を終えて帰還し着艦収容を待っていた。源田は第二次攻撃隊を発進させれば第一次攻撃隊100機が燃料切れで不時着着水するため戦友を見殺しにできず、第二次攻撃隊の発進より第一次攻撃隊の収容を優先を進言した[89]。当時得られていた情報(誤情報)から時間的な余裕があると判断したためでもある[注釈 13]。[93]


日本軍は米軍機動部隊から発進したTBDデバステーター雷撃機の攻撃を撃退し[注釈 14]、源田は勝利を信じ、まず敵母艦からの来襲機を撃滅し、次に敵の母艦の群れを葬り去り、夜から明朝にかけて叩き潰すと考えていた[95]。 しかし、敵上空来襲の知らせがあるも当時無線電話が弱く、雲量も多かったため雷撃に対処した戦闘機へ上空警戒の指示することができなかった。[96]南雲機動部隊が米軍機動部隊に向けて攻撃隊の発進準備を終えようとしていた時、SBDドーントレス急降下爆撃機の奇襲により、日本軍は空母「赤城」、「加賀」、「蒼龍」を一挙に失う。 源田が乗艦する旗艦「赤城」は大火災を起こし、南雲司令部は全員、軽巡長良に移乗した。[注釈 15] そして南雲機動部隊4空母のうち、最後まで奮戦していた空母飛龍も米軍機の攻撃で炎上した。

その後も、種々の作戦に関り、戦後は企業、自衛隊、参議院議員になっています。
ミッドウェー海戦は、歴史的なターニングポイントだった戦いです。

こういった重大な失敗を犯した物の責任が問われない日本の体質は、戦後も引き継がれていると思っています。いろいろな考えの人がいるとは思いますが、普通は左遷だろうと思います。

日本の責任を追及しない体質ですね。

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2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

日本は責任を追及しない体質じゃないし
一度の失敗で参謀部全員粛清したら作戦できないよ
それにかけみたいなことで凶と出て
結果だけを見て批判するほうがよっぽど不健全な社会だよ

匿名 さんのコメント...

戦争時の功罪は然るべきタイミングで然るべき場所で評価は委ねられるべきと思うが、戦後に於ける活動については非難されるものは何もないと思う。なぜなら人間は成功ではなく失敗からこそ多くのものを学ぶから。

「失敗したからお前は消えろ」では社会はブラッシュアップされず決して良くならない。成功より失敗を恐れて社会は萎縮してしまうだろう。なせ失敗したのか?その本質を理解し二度と同じ失敗を繰り返さないためにも、関わった人間が真摯に受け止めるならば大いにそれを社会に役立てるべき

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